はじめに

 (1969)昭和四十四年に国会で成立され、国を()げての同和対策特別措置法(時限立法)より三十三年間、取組まれた現在に置いては同和行政は特殊部落の住環境を整え、学力・就労分野でも大きく是正され、()して同和問題の最大の問題であった結婚に伴う差別が無くなり、同和地区内に建設された公営住宅の一般開放が促進されるなど、混住化も一層に進んでいる。
(2002)平成十四年にまでに約15兆円が費やされた同和行政は
(すで)臨界点(りんかいてん)を超えていた取組に終結して、一般政策に移行したのであるが、ある意味に置いては一部、就労問題等の企業の責任としての殿(しんがり)を残した撤退ぶりは見事な時代の演出であったと称えたい。
 (しか)し、恒久(こうきゅう)に続いた、行きすぎた同和問題の啓発は『同和嫌い』生み出し、同和行政の終結で、(あたか)も新行政人はおろか国民も特殊部落は完全に解放され差別はなくなり、(くす)ぶる諸問題も全て解決して終わったと思われがちであるが、残念ながら四百年以上に渡る身分の上下関係を重視し、個人の自由や権利を認めないと云う封建(ほうけん)的身分制度の色彩(しきさい)払拭(ふっしょく)出来ておらず、特殊部落や被差別部落民への差別は根強く残っていると云わざるをえない。
 私には左翼的思想はないが、(かんが)みるに同和行政の教育・啓発には誤った取組があったと結論付けております。そもそも『同和』とは天皇制の基での『同胞一和』の略語で一般国民に対しては同情をといて、双方を融和させる融和主義思想から出たもので、第二次世界大戦による国家総動員体制は、融和団体を同和奉公会に改組(かいそ)し、()れ以後の教育は同和教育と呼ばれたのは、戦時体制の中に特殊部落民をも戦争に総動員させる政策であった訳で、明治以降の我が国の同和教育は一貫して差別の教育であり、部落問題の真の解決を意図しない教育であったと云えるので、戦後であっても軍国主義教育の一環として(はか)られて(つく)られたものであるから特殊部落の解放には無縁のものであると思い、(こう)うして始まった同和教育・啓発には初めから誤りながら施行されたものではないかと云う考えに至ります。
 従がって特殊部落や被差別部落民に差別が未だに根強く残っているまま、同和行政が一般政策に移行した現在は一般団体の我々が、国民に再理解を深め、一般国民全体と連帯して国や行政側に真の解放・解決に導く教育を施し真の民主主義立国を目指さなければならないと覚醒するに至り、()れに()たものに気が付いた者が過去にもなかったのか。(いな)、居た筈だと私は長年に渡り、忘れられていた人物を思い出したのである。
 ()れは西光万吉(さいこうまんきち)でる。彼の『一君万人』と云うのは天皇の慈愛(じあい)の基で(あまね)く民衆が平等であると云う思惟(しゆい)であり、無差別平等を目指した基本的人権の確立や民主主義立国への理想は高く、()の理念も崇高(すうこう)ものであった。(しか)し多々、見誤れて批判する者もあったが、私は彼への誤解が解け、今一度、見直されることを願っている。
 そうだ
()の人の生涯を小説にして自分の考えを後世に伝え残したいと云う気持ちが高まりつつ、筆を取る決意を固めたのである。
 私は西光万吉に
謦咳(けいがい)して直接話を聞くことは出来ない世代に生れたので、ご本人や他著書に書かれた文章を参考にして筆を進めるのですが、其処(そこ)には壮大な大河なドラマが展開するだろうと身ぶるいしたものだ。
 さて、今から約一世紀(100)前、(1922年)大正11年、西光万吉を含む、坂本清一郎、駒井喜作『柏原三青年』と呼ばれた者が中心となって三月三日に結成された全国水平社は創立後、燎原(りょうげん)の火の(ごと)く日本全土に燃え広がった。
「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とは我が国で最も最初の『人権宣言』と云われた、全国水平社宣言であるが、至高(しこう)の人、西光万吉がこの言葉によって宣言書を締め(くく)った心境は現代の我々兄弟たちに何を伝えたかったのか、神童とまで呼ばれ差別撤廃(てっぱい)(まれ)に見る矉世(がいせい)(すぐ)れた活動家の七十五年の生涯には単に被差別部落の解放を冀求(ききゅう)した訳ではなく、無差別平等(むさべつびょうどう)の社会の建設を目指し、()れを具現化(ぐげんか)する(ため)に人間形成に無くてはならない愛・信・勇・義を(いばら)の道を手探りで懊悩(おうのう)しながら探し求めた生き様は衝撃的な大きな叡智(えいち)を読む者に与えてくれるでしょう。
 
今日(こんにち)、世界情勢を視てみると(2014年)のロシアのクリミアへの侵攻はウクライナ南部のクリミア自治共和国に対して行なっている軍事行動は欧米など国際社会からの批判にも関わらず、ウクライナ将兵の厭戦気分を高め、クリミア支配の確立を急ぎ、無血でのクリミア半島を完全に蹂躙し、掌握を目指しているとみられる。
 (2014年)五月に中華人民共和国が南シナ海の南沙諸島(スプラトリー諸島)で暗礁を埋め立て、人工島にして軍事拠点とする工事を行っていることを問題とする国際的な論争、南沙諸島埋め立て問題。此れに対し(2015年)十月二七日、米海軍のイージス駆逐艦「ラッセン」が、中国が建設した人工島から12海里以内の海域を航行した。このオペレーションは、「航行の自由」作戦と名付けられ、中国の南シナ海に対する権利の主張を根本から否定するものであるもので、米国との軍事衝突を避けたい中国を追いつめる、軍事衝突も辞さないと米国の決意を示すものでもあるが、米国と同盟国である我が国は
他人(ひと)ごとではあるまい。
 
()して我が国は米国に背中を圧された形で(2015年)平成九月十九日未明、与党自由民主党と公明党およびそれに迎合する野党三党は、前々日の参議院特別委員会の抜き打ちで可決し成立させたものは戦争法案と云っても過言ではない安全保障関連法案を参議院本会議で強行採決させたのは議会制民主主義の冒涜であると国民の六割以上が反対して多くの若者が国会議事堂へ終結して抗議運動をしている。
 亦は(1937年)昭和12年、民国紀元26年の日中戦争において民主主義擁護団体の最後の砦であった全国水平社は創立より後、六年で一世紀を迎えようとしている今日、平和への行き先が見えない
()うした混沌(こんとん)する時代の()の年に()えて著者は筆を取り始めたのは平和や民主主義をこよなく愛した西光万吉の生涯を通じて、現在の我が国の若者に私の残された人生の時間の内に全てを打ち込み、どうしても伝え残したいものがあるからに他ならない。
 将又(はたまた)(よわい)五十を迎えた今日(きょう)、利益や見返りを求めるものではなく、只々私を育ててくれた亡き祖母の小林まつゑ、亡き伯父の小林進の冥福を祈りつつ、少数だが、血縁関係者や私が愛した素晴らしい女性達にもの本を(ささ)げ、自由や平和への道を鮮明に映すだした地図として示し、少しでも幸多かれと伝えたい一心で筆を取り始めたのかも知れない。
 (しか)し、私は小説家としての才能も(とぼ)しく、生計を立てる者でもないので、書き終えるまでには、先ずは千日の光陰(こういん)が必要であることを予めご承諾して頂きたくお願い致します。


(2016年)平成二十八年一月十日

著者:江田 歩
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 猶書(なおがき)
この記述は飽くまでも下書きと致し、後に清書する時はよくよく見直し、出来るだけ事実を基に訂正致しますが、学のない私の上に資料を集める労費する時間が御座いませんので、事実とは異なる個所が発生した文章で構成されるでしょうし、誤字脱字が目立つかも知れません。其れを見つけ出す方が居りましたら、どうぞご指摘ください。亦、西光万吉・全国水平社 創立メンバーに関わる写真をアップロードしていきまので写真展を是非、タップしてみてください。




  (1)
 

[第一章] 

 熱く光を放て

 ()
インドの言葉で「アミターバ」無量光「アミターユス」(無量寿の「アミタ」(無量)を音写した言葉で阿弥陀如来とは、「無量光」と空間的に制約のない救済活動を表し、「無量寿」と時間的に制約のない救済活動を表している。
 其の無限に救いを届けられる仏さまである阿弥陀如来をご本尊にする仏教を広めたのは親鸞聖人(しんらんしょうにん)である。
 親鸞聖人は承安341日(1173521日)に誕生され、九歳で出家され、比叡山で二十年間の厳しい修行に励んだが、悟りへの道を見いだせず山を下り、法然聖人の導きで、自分にとって専修念仏こそが唯一の道であると気付いたが、三十五歳の時には、念仏弾圧で越後(新潟県)に流罪となりその後、関東へと移り『南無阿弥陀仏』と念仏のみの教えを広められた浄土真宗本願寺派の宗祖である。其れより八代目の蓮如上人(れんにょしょうにん)は、親鸞聖人から約二百年後の高僧で親鸞聖人の教えを正確に多くの人に伝えた高僧として、蓮如上人の右に出る僧は今日まで無く、わずか一代で全国津々浦々に親鸞聖人の教えを徹底されたので、今日では真宗中興の祖とたたえられている。
 三頭の俊馬を乗り継がれ、北陸、関東、東北と、精力的に布教を展開されました。その広範囲に及ぶご活躍を知れば、仏教の大学者でもあった上人に、なぜか著書が少ない理由も(うな)ずけるであろう。上人のみ足には草鞋(わらじ)(ちょ)が食い込み、晩年、あとがクッキリと残っていたと伝えられている。亦、こんな逸話がある。蓮如上人のご母堂は滋賀県の膳所の特殊部落の出身であるのが(もっぱ)らのお伝であったので、全国の特殊部落民衆では親鸞聖人が開祖である本願寺の中興の叡者(えいじゃ)、蓮如上人を(まつり)(あが)めるているのが多いと思われる。
 然し本願寺はこれを良しとしないで、応永27年(1420年)、蓮如わずか6歳たが、存如(ざいにょ)が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を追放させられ、蓮如上人の母親は石山寺の観音菩薩の子供だったとした。
 此処にも古今(ここん)より特殊部落民への偏見(へんけん)や、差別が存在していたことが歴然(れきぜん)(わか)るであろう。
 本書の主人公である西光万吉は(本名: 清原一隆)1895(明治二八年)417日、奈良県南葛城郡掖上村柏原北方(現御所市柏原)の浄土真宗本願寺派 西光寺にて呱呱(ここ)の声を()げた
此の西光寺は『西本願寺寺院台帳』によると(1748)寛延元に建立され、当時は揔道場(看坊釈周道)と呼ばれていたが、創設僧・初代住職は浄元とし、(1730)年十月二五日に西本願寺から西光寺の寺号と本尊の阿弥陀如来が下付されたと記されている。

 さて、幼少期の清原 一隆は気弱そうに痩身矮躯(そうしんわいく)であったが、葉を見ながらして木全体見、其の木を見ながらにして森全体を見られる良き目を持ち、人の言葉から一を聞いて十知るが如く良き耳を持っていた。
 而して大人の顔色ばかりを気にしているかのように物思いに無口であった。
 姓を西光寺の西光として名を万吉としたのは、まだこれより後のことであったが、(1901)明治三十四年四月に掖上村立尋常小学校(四年制)に入学し、其の一年後の大地が暖まり冬眠していた虫が春の訪れを感じ、穴から出てくる啓蟄(けいちつ)の季節で一隆、七歳の頃であった。
「ボン、ボンよ一隆よ何処におるのだ。用事がある何処(どこ)におるのか返事をせぬか」



   (2)

(二)
袈裟(けさ)(まと)った一隆の父親、西光寺の住職、清原道隆の太い声が西光寺の本堂はおろか、境内全体に鳴り響いた。眉間に(しわ)を寄せて何度も息子の一隆を呼ぶが、()れでも一隆は出て来ない。而して、
「・・・・・」
 沈黙の中、静寂(せいじゃく)したお堂内に今度は無音の音だけが鳴り響きだすと、道隆はふと本尊の阿弥陀如来に目を向けた。阿弥陀如来の表情はやさしく穏やかであり、定朝の作風の特徴を伝え、後背には頭部と体から放たれた光を(あで)やかに放たれているようで、二重円光の周りを音楽を奏かなでる飛天が舞っている。道隆は左手にしていた日課念珠の六万浄土を二つの輪の親玉を揃え、親指に掛けて房は手前に下し合掌した。
 この刹那(せつな)、道隆は一隆の居所(いどころ)()ったのだ。
 祭壇に向かって本尊の阿弥陀如来の右側には親鸞聖人が祀られ、左側には蓮如上人が祀られている。いずれも木像であるが、金色の漆箔が押された檜の一木から彫りだされた、本尊の阿弥陀如来を再び観測するように視てみると弥陀定印は最上の定印で上品上生印を結んでいることや童子を連想させる丸々とした顔立ちに穏やかさが感ぜられる作風等から浄土に対する憧れが強くなった平安中期頃の作品と考えられ「藤原仏」と呼ばれた藤原氏の庇護の基、都の「仏所」と呼ばれる工房で造られた定朝作であり、両脇侍像の親鸞聖人や蓮如上人等の面相も丸みを帯び気品が漂い 衣文流暢にして円熟していることから定朝の亡き後、其の弟子たちの作品であることが解る。
 道隆は天井から()らびやかに吊るされている隅瓔珞(すみようらく)宝鐸(ほうたく)を掻き分けて祭壇の後ろ側に廻った。
「やはり此処におったか一隆よ」と言葉を発しようとしたが、声にならなかった。
 一隆は道隆が買い与えたスケッチブックを大切な物のように膝を折り丸く小さくなったまま女子のような白く細い両腕で抱いたまま微かな寝息をたてている。
 道隆は一隆が驚かないように黙したまま、スケッチブックを静かに取り上げた。
 其れを開いて観てみると、斜面から書き映した阿弥陀如来であった。此れまでにもあったが、自身も絵心のある道隆は改めて低い唸りと共に驚いた。この時、確かにこの子には絵画の才に秀でている処があると再確認したのである。
 将来、寺の存亡を賭けた跡取り息子が画家にでもなると云いだすかも知れない。常から厳しく、特に一隆の教育には厳格であり滅多に眉間の(しわ)を消すことが少ない道隆は将来の希望に寂寥を覚えたのか瞳を薄く濡らして(しばら)(なお)も沈黙したまま、見守るかのように居眠っている我が子の前で(たたず)んでいたが、墨で見事に描かれた阿弥陀如来の面相が何やら悲しげに描かれていることに気付き、大きな(てのひら)を一隆の頭の上に置いて呟くように小さく、
「一隆よ起きろや」と小さな頭を撫でながら吐くように云った。

 一隆は瞳を阿弥陀如来のように切れ長の細い目まで空けて暫くいたが、パチリと大きな(まなこ)にして、下から父親の道隆を不思議そうに見ている。
「一隆、何処(どこに)に行ったのかと寺の境内を廻りあちこちお前を探しておったのじゃぞ」
 三日前から一隆は通っている掖上村立尋常小学校を不登校して隠れるかのようにして西光寺の境内にある観音堂や愛染明王が安置されているお堂に引き籠っている時間が多かった。「一隆よそのようにして学校にも行かずどうしたのだ」と隆道。
 この時も普段の厳格な父親らしさは無く自分もしゃがみ込み子供の目線で優しく問いかけた。
「・・・・・・」
 一隆は父親の道隆から奪うようにスケッチブックを取ったが、やはりこの頃の一隆は無口で(もく)したままであった。
「坂本さんも来とるし、ボンも来とるからご挨拶に来い・・・学校で何があったのかはワシも坂本のボンに聞いたぞ、ボンもお前のことを心配して来てくれたんや、ささ行くぞ」と道隆は一隆の白く細い腕を(つま)んで立たせ、引きずるように本堂を出て、起居の家屋の茶室に一隆を連れて行った。
 其の茶室には(1889)明治二十二年には自由党に入党して自由民権運動を精力的に推し進めていた活動家、坂本清俊と、その親子程ではないが年の離れた従兄にあたるで坂本清一郎が待っていた。 
 道隆が言うボンとは坂本清一郎のことであったが、清一郎は一隆より(1892年)明治二十五年一月元旦生まれで、三つ年上であり、この集落でも裕福な環境で育った庄屋の二男坊であった為、坂本のボンボンと呼ばれていたのである。()れど、この時十歳の清一郎は後の全国水平社の名付け親になった創立メンバーの中では一番の年長者なるのである。
一方、成年坂本清俊は歴史書をよく
読書三倒(どくしょさんとう)し、博学で学究的な風貌(ふうぼう)であって自由民権運動に暗中飛躍(あんちゅうひやく)する活動家でもある。
其の清俊が、

「やあやあ、やっときよったか一隆。和尚よ一隆は何処に隠れておったんじゃ」と(りん)りんとした声で向かえた。



 (3)

()
「お待たせさてしもうて、すまんの清俊はん、ボンもわざわざ来て来てもろて。・・・」
と道隆が清俊に深ぶかく照るようにツルツルに剃りあげた頭を()れて、
「本堂の祭壇の裏に隠れて居眠っておった、ご面倒かけますなぁ」と続けて云った後、左手で一隆の頭にひとつ硬く重い拳骨(げんこつ)をゴッンと食らわすと、眉間に皺を寄せた常、日頃の厳格な父親に戻っていた。
 一隆は痛さに堪らずスケッチブックをポトンと落として両手で頭を撫でながら
「どうもこんにちわ清俊のお兄さん」と呟くように小さな声を発した。
 清一郎は道隆に腕を掴まれて下を向いたまま入室して来た時から目を離さず一隆を見ていたが、友情からくる(うれい)を見せずに微笑を湛え、大人同士で話合わせておけばいい、この茶室から外庭に出て駒で遊ぼうやと誘っているようだ。
 一隆はそんな清一郎の顔を下向きながら大きな目だけを上向きしてチラリ、チラリと見ていた。
 其処へ一隆の母親のコノエが盆に茶と菓子を持って
「ごめんぐださいませ」と閉ざされた障子を透き通るような声の後あと、入って来た。
 其のお茶が白く細い指で静かに清俊、清一郎の分が、新しく交換され、道隆の分も運ばれてきたところで、清俊、道隆が一服すると、
「なんでも学校で隣村の餓鬼どもが一隆の鉛筆を折ったり、其れをゴミ箱に捨てられたり、エッタ、エッタと云われ(はや)し立てられ、虐めにあっているそうですね」と清俊が云うと
「それだけやないで、それで一隆が珍しく怒って筆箱をあいつらに投げつけたんじゃが 先生に見つかってあいつ等の話だけを聞いてやなぁ、そら、どエッタが悪いと廊下に立たされてバケツを両手に持たされたんや」と清一郎がまるで自分自身が理不尽にたっぷり水が入ったバケツを持たされたかのように、苦渋の顔で怒りに顔を赤らめて云う。
「まぁ・・・相手に怪我はなかったのですか??」コノエ大きなお腹を両手で抱えながら其々それぞれの顔を見廻して云ったが、其れを間を空けず掻き消すように、
「たいしたことあらへん。(かす)り傷にもなっとなん」と投げ出すかのように清一郎。
「間違いはないか一隆。そないなこと云われたんやな」と恐い顔をして隆道が項垂(うなだ)れている一隆の顔を下から覗き込んだ。
「うん・・・・・」と頭を上下して頷いた。
 亦また、清一郎が怒鳴りあげるように
「おっちゃん、今に始まったことやあらへんで、学校ではワシ等エッタは先生の言葉使いから違っている。運動場で整列させられる時でも、普通は前から背の低いヤツ順に整列させられると、ワシのおとやんは云っとったが、エッタは背丈なんか関係なく後ろの方に別に並ばされるんじゃ」と云う。
 元々、病弱なコノエは苦しそうな(せき)をした後、
「-------それはあかんなぁ、一隆のことをエッタ、エッタと云う子は悪い子や。この子らに何の罪があるんというのでしょうか」とコノエは優しく一隆の丸くなった小さくか細いゴツゴツとした背中を何度も()でながら、励ますように云う。
「おばちゃん、なんでワシ等はエッタなんや。なんで他の者から差別されたりするんや、他の者よりも下の身分で、そう云うもんやて云うて大人は誰もはっきりと教えてくれん。おばちゃんなら教えてくれるか」と逼るようにコノエに問いかける清一郎。
「-------其れは・・・・」と答えてコノエは隆道と清俊の顔を困ったような顔をして見た。
「これこれ」と隣に座っている清俊が清一郎の腿を指で軽く(つね)り、また(たしな)めた。
清一郎は大げさに、
「痛い」と叫び、同時に立ちあがった。而して、
「やっぱり、大人連中は誰も教えてくれん」と脹れっ面になり、一隆の側に廻って一隆の手を取り、
「外に出て駒遊びしてくるわ」と素早く茶室を出て行った。「すみません和尚、コノエさん。清一郎はなんの不自由なく甘やかされて育ちましたから乱暴もこの上無く、失礼しました」と清俊は頭を掻き謝ると、道隆もコノエも首を振ってそれどころか坂本のボンには一隆がいつも助けられ、世話になっていることを話して頭を何度も下げた。
「いやいや」と誠実な清俊は其れを制した。
 すると今度は難しい顔をして(えり)(ただ)すように正座を正した清隆は、
(いず)れにせよ、此れはほっといてはいけません。私は明日、学校の担任と校長に合って来て抗議をしてこようと思うのですが」と云う。
「それは有り難いのですが、私等が差別を受けて諦めていう。其のように諦めている者たちが沢山いるのですが、それは時と共に黙ってさえいれば、差別は無くなるものだと思っているのですからじゃ。一隆の為にあまり無理なことして清隆さんにご迷惑はかからんじゃろか」とコノエが云うと、
「それがあかんのですコノエさん。我々は長く祖先より迫害(はくがい)や差別を受け、其れに慣れてしまい諦めて来ました、諦めは絶望とおなじです。・・・此れは和尚ともよく話し合っているのですが、私も余所(よそ)から嫁を貰うことは出来んかったけど、今、交際している女性と近い内に結婚します、結婚したら子孫を残す為に子を授かるように願っておりますが、無辜(むこ)なる子供たちにも絶望の中で、諦めよとは云いたくないのです。」
 コノエはいつしか目を赤らめていた。其れを見た道隆も清俊も身籠(みごも)臨月(りんげつ)のコノエを身体が大切と入らぬ心配はしないようにと云って部屋に戻るように即した。そう云えば、先程からコノエが戻る部屋から未だ乳飲み子の秀道が火が付いたかのように泣き出していて此処(ここ)まで其の泣き声が聞こえている。秀道とは道隆、コノエの末っ子で、つまり一隆の弟である。コノエが腹を抱えながら走るように秀道の(ところ)に帰ると、走りだしたばかりの末娘のコヌイが秀道をなんとかあやそうとしながら
「秀坊、泣かんといて。」と云っているかのように、
「よし、よし」と秀道の胸をポンポンと優しく打っていた。





(4)

()
 コノエが茶室を出ていった処で、渋柿(しぶがき)(かじ)ったような顔をして、
「そう・・・・・そうじのう、何故に我々が差別されるのかを今のワシ等の知識は乏しい。
 その乏しいままでは子供たちに説明することは出来んのじゃ。其れでは絶望と諦めを背負させなければならなく、他の家でも子供たちに説明することが出来んのじゃろ」と、云い、隆道は続けて、
(しか)しのコノエにも何時(いつも)も話とるんじゃが、清俊はんと何時も話をしとるのわ、人間は絶望したらあかん、絶望は死を意味するものじゃ。生きることに諦めたらあかんのじゃ。絶望して生きるのは生きながら地獄にいて死んでいるようなものじゃ。悪人正機と云うが阿弥陀様は平等の慈悲心をもって悪人にも救済を注がれ、全ての生きとし生けるものに同じ悟りを開かせたいと云う願いをなされておる。()すればワシ等、エッタにも御仏の天佑神助(てんゆうしんじょ)はあるものじゃから希望を捨ず、光輝き生きて行かんとあかんと常々清俊はんと話をしとる・・・そうじゃ、其の希望とは、()れから生れる子や今のそれ、あの子達じゃよ」と、茶室の障子を少し空けて庭で無邪気に遊戯している一隆と清一郎の様子を清俊に見せた。
 一隆と清一郎は駒を廻して、ぶつけ合うのではなく、どちらの駒が長く廻っていられるかを競い合いながら遊んでいた。一隆はこの三つ年上の清一郎によく心を開いていた。
 別の部屋からも秀道を抱き、あやしながら其の光景を見ていたコノエは前掛けで(あふ)れる涙を(ぬぐ)い、鼻にあてながら、
「まぁ、あの様に一隆が目を輝かせて笑いながら大きな声で話している処を見るのは久しいことです。・・・やはり坂本のボンさんには有り難いものですね」と誰にするものではなく、コノエは手を合わせて二度、三度と頭を下げた。一隆は小学校の入学を楽しみにしていた為、差別の現実に心から失望して悄々(しょうじょう)してやまなかったが、清一郎は此れをよく知って一隆を励ますようにしていた。
「カズやん、明日から学校にこんとあかんで、カズやんのことをエッタ、エッタと云って囃し立てられたら先生やら大人のことなんか気にせんでも殴ってやったらいいねん。ワイも今度見つけたら怒鳴り付けたるさかいにな」と清一郎。
「うん、セイやんがそないなこと云うてくれたら、ワイもセイやんみたいに立ち向かおうと思うんやどワイもセイやんみたいになれるやろか」と一隆。
「絶対にカズやんはなれるわ。ワイみたいに喧嘩でなれなかっても、ガズやんは頭がいいから其の頭を使って力にするんやで、このまま学校に行かずにいたら差別に負けたことになるから、あかんで」と力強く駒を投げる清一郎。
「そう云われたらなんやワイも立ち向かう気力が湧き出て勇気が出て来よったわ」と(ひとみ)が煌めく一隆。
「そやそや、その意気やでカズやん。何時(いつも)も清俊の兄やんも(うち)のお父やんも云っとるで人間は本気で熱を出して光輝かなあかんてな、()したら恐くても勇気が出て来て希望を持って走れるんやと耳に胼胝(たこ)が出来るほど云いよる」と得意げに清一郎。
 遠くの方で玩具のように小さく見える機関車は汽笛を鳴らし、黒煙を吐いて物凄い速さで走って行くのを見て、

「熱出して光輝き本気で走る??・・・機関車みたいなもんや」と、大きな声で叫ぶように声を発した一隆。
「おうおう、機関車か。これは馬力あるで」と清一郎が云うと二人は爆笑して飛び跳ねて手を叩き、キャキャと喜んでいる。一隆の言葉や声は今までにないほどな活気に満ちたもので、はっきりと茶室まで届いていた。
 其んな二人の光景を黙って暫く観ていた隆道、コノエ、清俊の三人は目を赤くしながら(にが)くも微笑せずに居られなかった。
 普段はおとなしい一隆の声をもっと聞きたかったのか、清隆などは立ち上がって茶室の障子の隅から見聞きして、
「うーん」と重く頷いた。 
 先にも少し触れて置いたが、この時期に同志の巽数馬(たつみかずま)と共に自由党に入党し、藩閥政府に対抗して国会開設、憲法制定等の実施を要求するに起こった民主主義的政治運動であった自由民権運動に奔走していた清俊は心の中で確信した。
(やはり人間の解放を求め、この国のあらゆる面で、民衆の自由と平等を尊重し、
(あまね)く人民全体の利益や幸福の為に人民の手により自由で平等の国家を築こうするには自分達の代だけではなく、一隆や清一郎のような子供たちを萌芽(ほうが)として(はぐく)み、未来へと希望に変えなければならない。・・・・・そうだ此の国にそうした精神の確立が()されば、(きたな)(おお)くの者と云う意味でもある穢多(エタ)と蔑視され、差別さられることも必然的になくなるのだ。)と考えていた。
其して清俊は席に戻ると道隆に、
「私は予てより和尚に云うとったように、差別や偏見に負けない未来を作り上げる(ため)に一隆や清一郎達、その他の此の村の子供達にどうして穢多と云われるのかを教え、戦い方を教える塾たるものを創ろうと決心しました」
而して続ける。
「其処で学ぶ子供らは決して絶望して諦めた大人とは違って、みんなあつい熱を持ち光輝く希望の光をもった人間に成長するのです」と涼やかな笑みの面相で云う。  



 (5)

[第二章] 

 坂本清俊塾

()
 此処、奈良県南葛城郡掖上村柏原北方は奈良盆地の南端近くにある。独立丘陵の山頂からは大和盆地が一望出来る一四二・八メートルの小高い丘の本馬山あり、北上する曽我川とが出会う地点であり山頂をつらねた線が橿原市と現在の御所市境界線で、曽我川に直交して西方から流入する満願寺川と本馬山との間の狭隘な土地をさす。
 次の朝、清隆は晴天に恵まれて、満願寺川沿いに自転車押しなから歩き、一隆に同行して掖上村立尋常小学校に向かっていた。校内に入って一隆は清俊と(わか)れて授業に就いていたが、清隆は校長室へ真っすぐに向かい、一方的に方側の話しか聞かず、「其れはどエッタが悪い」と廊下に水の入ったバケツを両手に持たせて長時間に渡り、一隆を制裁した体育担当者と校長と校長室の応接間に座していた。
自由民権運動に奔走(ほんそう)している活動家らしく、抗議に来ているのだから、清俊は眉を吊り上げながら、
「それでは学校側では今、私が説明した差別はなかったとおっしゃるのですか?」と立ち上がり怒鳴るように云う。

「そうですな。そんな報告は何も聞いておりませんわ。しかし、廊下にバケツを持って立たされたと云うのは、聞いておりますが、これは悪いことをした子にはそうした体罰をくだすのは何処の子であろうと同じようにさせておりますが」とふてぶてしい態度の校長で、大柄の体育担当の教員は清俊が席を立ちあがったと同時に立ち上がり、身長の差から清俊を上から睨みながら
「一隆君は木製の筆箱を他の生徒に投げつけて怪我をさせたのですよ。フン、いつも悪いことをするのは・・・・・」
「いつも悪いことするのは私達、新平民の者やと云いたいのですか?・・・先生、あんたは一隆によくよく事情も聞かずに、そらどエッタが悪いと一隆だけに罰を与えた、これが差別と違うと云うなら何ぞ」と清俊は更に声を上げる。
 清俊は続けて、
「これは今に始まったことではないが、学校側はこうした差別を黙認するどころか、先生方自体が、差別しているではありませんか、間違いなく一隆だけではなく、新平民の子等は汚いとか臭いとかと云われ差別を受けている。一隆は、そんなことを云われて大切にしていた鉛筆を何本も折られてゴミ箱に捨てられ、囃し立てられたのですよ、だから普段はおとなしい一隆も(たま)りかねて筆箱をその子等に投げつけたのです。そうした経路があっての一隆の些細な暴力だったのですが、それを聞かずに貴方がたは頭から悪いことをするのは新平民の子で、どエッタが悪いと差別をしたのです。これはこのまま放置しておくと後で問題が大きくなりそうで見過ごすことができない由々き問題です」と威厳(いげん)を持って云うと、校長が再びふてぶてしく、
「それは君、差別ではなく、区別ですよ。君も知っとるでしょう、明治四年・・・あれは確か八月の二八日じったのう。政府から出された賎民解放令は有り難くもねぇ君、これまでの封建的の身分制度の最下位におかれた穢多や非人などの所謂、賎民の身分を解かれて、新たに新平民と改めましたが、新平民は私ども等とは違って住民票でも新平民と記載されているではありませんか」と煙草に火をつけた。

 終始、清俊は眉を吊り上げて下げずにいたが、出来るだけ紳士的に振舞うように努力に努めながら抗議し続ける心算(こころつもり)でいたが、
「確かに太府官布告として出された賎民解放令で私達は新平民と改められました、しかしこれわねぇ、これからは穢多、非人等の称号を廃止し、身分も職業も平民同様たるものとの内容になっとるのです。新平民だからと云って区別しているというですか
?
最早(もはや)、区別することも、ましてや差別をすることは絶対に許されないことなんです、なのに教育のこの場で同じ赤い血が流れている人間が人間を区別も差別もしてはいけないんですよ。そもそも教育の教とは一、家庭に置いては父親の為すべきもので教育の育とは母親が為すものです。()して、子供達の社会に置いては教育の教はまさしく学校です。そして教育の育は家庭でしょう。教育とは教と育の二つが一つになってはじめて()されるものなのです。貴方達は教員でしょう、それを一般地区の子供達に私達新平民に偏見の目で見させ、差別をするように教えているようですな。私はこれを断固抗議いたします。強いては何年前かに起こった学校騒動のような二の舞になるようなことだけは避けたいが、・・・・・・」と眼光鋭く炯炯(けいけい)たる光を放ち、此処で言葉切って、学校側の姿勢に紙背(しはい(てつ)した。
此れには学校側も思いだしたかのように頭を抱え
狼狽(ろうばい)し、
「-------・・・・・・」
返す言葉をなくして暫く黙していたが、其れでも猶、一環として其のような事実確認が出来ていない、体育担当の教員も差別的言動は無かったと否定する一方で、差別ではなく、区別をしていると、区別は当然で悪くはないと一点張りで
(らち)が開かない。 
 ()うした校長室の緊迫した空気は一時間以上に渡ったが、清俊は思いの確認を再にして、一隆の教室に寄って一隆の目を見ながら頭を撫で、二つ三つ頷いて見せ、校門を出た。
 清俊は校門の脇道に咲いた二つの蒲公英(タンポポ)にふと目を落とした。ひとつの蒲公英は葉を傷つき小さかった。然しかし此の二つの蒲公英は紛れもなく同種の花だと思って佇たたずんだ清俊は涙を其の蒲公英の黄色い花に落とした。  





(6)

()
 この頃の清俊は伯父の坂本清三郎宅に間借りして其の長男である精一や次男坊である清一郎と同じ住処で起居を共にしていた。坂本家は土蔵もった大きな屋敷で、家業を膠製造業の工場を建て其処で働く縁者や掖上村柏原北方の者で何時も活気に満ち、地区でも分限者であったからか、清一郎の祖父、坂本清五郎の時から庄屋であり、高取藩の役場からの連絡や呼び出しがあった場合には代官の基で村政を担当した戸長であった。
 夕方になって清一郎が学校から帰ってくると、慌てて清俊の部屋に駆けつけて、
「おお、帰って来たか清一郎」と云う清俊の言葉を最後まで聞かずに重ねるように、
「清俊の兄やん、学校ではどんな話で決着がついたかのう?」 清一郎は従兄である清俊を長兄の精一よりも(いささ)か年上であったので、清俊の兄やんと呼んでいる。
「ああ、そんなに慌てんでも先ずはここへ座りや、そのことも大事な報告として、隠さずに、これからゆっくりと清一郎に説明し、その上でこれからどうしたら良いのかを話をしたいのじゃ」とニコリと作り笑顔を見せる清俊。
「いいか清一郎、これからは一隆もそうじゃが、お前たちは子供の時分から大人の闘い方を学んで行かなければならん」「清俊の兄やん、そんなことよりも今日、学校であの体育の担当先生や校長先生に怒鳴り付けてやったんか。え?それでどない云うとるんやアイツ等は、早よ云うて」
「それを今から話そうとしているんやから、大人しく聞きや清一郎」
 清一郎は清俊の真剣な話し振りや、言葉の怒気と目に珍しく驚いたのか正座をしてキチンと両手を膝の上に置いて落ち着いた。清俊は其れを確認すると清一郎を真っすぐに見て、
「学校側はお前たちを差別してはいないし、一隆の一件も事実確認は出来ておらず、抗議を受ける謂われはないと、一点張りで開き直り改める心算はないようじゃ」
「そやったら、ワシやカズやんが嘘を付いているというんかいな」と清一郎はいつもらしくもなく、畳に視線を落として元気のない声で云う。
「いやいや決してそうではないのだ清一郎。僕にはねぇ婚約者がおったんじゃが、向こうの両親が、どうしてもエッタの処には嫁にはやれんと、反対された。どうしても結婚するんじゃったら、親子の縁を切ると云うから僕はなぁ、本当にその女性を愛して思ってやるには血を分けた親子の縁まで切られては可哀そうだと思い、自分から諦めてしまった。」
「え!その女の人とは今、付き合ってる人とかえ?
「いや、この話は一年前の話で、諦めた僕は同じ村の子と今は付き合っとる。エッタはのうエッタの者としか中々結婚することは難しいんじゃ。だが、今こんな話を清一郎にするのではなく、差別はなぁ一隆や清一郎の時代で始まったことではなく、僕の時代もあったし、清一郎のお父やんの時代にもあったんやし、もっと昔からあったんや。エッタや新平民やと嘲り笑われ、差別されて懊悩しているのはお前たちだけじゃないと云うことで、決して嘘を付いているのはお前たちではないことを知っておる」
「それでのう清一郎、今日の学校での話に戻るが、僕は絶対に許せん。いや許したらあかんのじゃ、お前たちまで僕らと同じ思いをすることはない。お前たちまで諦めたら、お前たちのその子も、またその孫たちも同じ懊悩を背負い、呪いのような差別を残すことになる。だから僕は断固として闘うぞ、僕は今、真剣に怒っている」
「じゃやっぱり、清俊の兄やんは学校で怒鳴り付けて喧嘩して来たんじゃな」と清一郎は目を輝かすが、清俊は窘たしなめるように両手を振り清一郎を制して苦笑いをして
「確かに抗議に行ったので、一隆が虐められた事実確認は出来ておらんやら、差別発言をしておらんと云って謝罪もせぬ学校側の態度には腹が立って強いては何年前かに起こった学校騒動のような二の舞になるようなことだけは避けたいがと促すように云った時には流石に顔色をなくし暫く黙しておったわ。それを脅しとか脅追だとかと云って面食らっておったが、確かに乱暴な喧嘩はいかん」
「喧嘩はいかん??・・・・でも学校騒動とは、お父やんに少し聞いたことあるが、あれは大喧嘩じゃったと聞いたが、大方忘れてしもうた。どんなことがあったんや」と益々と清一郎は目を輝かす。
「そないに目を輝かすことではないぞ、清一郎。あれはなぁ明治五年(1872)の話じゃが、明治政府は欧米を手本にしたものか、学区制を決めて全国各地に小学校の設置を義務付けたとき、翌年には、西光寺の本堂を代用して清脩舎せいしゅうしゃと呼んだ小学校が仮に開校されたんやが、柏原南方に今の学校が出来たとき、役場や村長等が人種が違うと柏原部落の児童を忌避きひし、差別して学校を分離させる動きがあった。この差別教育行政に篝火を焚き、日本刀で武装して向こうねじり鉢巻き、襷がけ姿で敢然と立ち向かったのは、清一郎お前のお父やんや柏原部落の多くの人だったんや、この時のことをなぁ僕等は学校騒動と云っておったんじゃ」
其れを聞いた清一郎は何やら満足ぎみに、ニヤリと笑い、拳を挙げて、
「やっぱり喧嘩や喧嘩、清俊の兄やんもお父やん達も喧嘩して勝って黙らせたんやろ」と云う。清俊は最早、清一郎を制することはしなかったが、暴力では決して解決出来ることではないことを良く知っていた。



(7)

()
数日後、木目が美しい(けやき)の板に『坂本清俊塾』とよく()った墨すみで書き終え、筆を置いた清俊は早速、坂本家の離れの一角の間借りしている部屋の入口に掲げ、其の足で、西光寺に向かった。西光寺の和尚、道隆に塾の教育方針について助言もほしかったし、一足先に西光寺に向かった伯父の清三郎の意見も求めたかった。三人寄れば文殊の知恵と西光寺の道隆が計らったことだが、然し途中で清俊は其処にもう一人をどうしても加えたかったので、満願寺川に架かった明治橋と云う橋を左に折れて、柏原中方周りに自転車を走らせて、(たつみ)医院へ巽数馬を誘いに駆けたのである。
 巽数馬とは先にも述べたが、清俊にとっては共に自由民権運動の洗礼を受けた旧友であり同志ある。
 其の巽数馬は清俊が巽医院に訪れると、子供のように瞳を輝かして、
「やあやあ、それはそれは僕も誘ってくださるのか」と喜び、清俊に連なって自分の自転車に跨りペダルをこいた。其して両人は二十分程で西光寺に着くと、
「おや、清俊やんの伯父さん清三郎はんが、あの樫の木の基で待っちょる」と指を差した。
 其の大きな巽数馬の声に気が付き、西光寺の庭に立つ巨木の樫の木の陰から姿を現した坂本清三郎は不動明王のように眉は太く()り上がり眼光鋭(がんこうするど)く、威風堂々(いふうどうどう)とした風格であった。然し直ぐに面相を崩し、
「兄ぃ、あまりにも遅いのうと和尚と云っていたところで、こうして外に出て待っておったが、そうか数馬はんを迎えに行っとたんかハハハァこれはええわい」と数馬を歓迎するように其の手を取った。
 亦、応接兼用に使っている例の茶室で待っていた西光寺の和尚の道隆も清三郎と同様に、
「おやおや、赤シャッポンの数馬と恐れられとる方も連れてこられたか」と、微笑を湛えながら数馬を心から歓迎して迎え入れたが、清俊は其んな心を読み取れず、
「和尚、口が悪い。赤シャッポンの数馬とは昔のことじゃ」と当人の数馬より先に清俊が慌てて苦情のように云うと数馬は大きく笑ったので、道隆も清三郎も腹を抱えるように狼狽する清俊を見て爆笑する。
 清俊は仕方が無く苦笑をするが、其れでも数馬の顔色を伺うかがった。
「昔のことじゃて五年も十年も経った昔のことじゃなかろうて」と猶、和尚はからかう。
「和尚、久しく会っていなかったが、変わらんのう」と笑っている数馬。
 其んな笑いの中で、そうだこの二人の関係は師弟関係でもあるのだと、ようやく思い出した清俊は安堵して、本当に笑うことが出来た。
 清俊と同年輩の巽数馬と云うこの若者は普段は温厚に見えるが、過激に突き進む運動を好む処ところがあった。医家に生まれた数馬は清脩舎(せいしゅうしゃ)で道隆を師として漢籍の手ほどきを受けて其の後に漢方学を(一八八五年)明治一八年から三年間に渡り、大阪は今橋の回春病院で勉学に励んだが、医院を営むには身分や出自等が厳しく問われる時代であった(ゆえ)に特殊部落民ではない知人の川合弥市朗氏の名義を借用しなければならなく、自身が本当の医師になるには近代以来の漢方から西欧医学に基ずく医術に改定された今、国家資格の取得が必要としたので(一八八七年)明治二十年に数馬は上京して私立開業医養成機関の『済生学舎』に入校したが、この当時は条約改正反対運動が高揚していた時期であり、在京中の数馬も其の渦中で爆発物の製造にかかわる原料を取集したと云う疑いで警察に逮捕されている。其して間もなく容疑が晴れて釈放され、当時二四歳の数馬は療養の為に脚気で帰省していたが、其の後に起こった『大隈重信爆弾事件』で再び爆弾所持の疑惑で逮捕され、東京に護送されてしまった。
 斯こうした過激的思想があったのだろうが、普段は軽挙妄動(けいきょもうどう)を嫌い、品行方正(ひんこうほうせい)を好んで温厚篤実(おんこうとくじつ)な医師を常に志し、勤勉の努力を懶惰(らんだ)せず、出獄後には医師の国家試験にも見事に合格を果たしている。
 然しその一方では赤シャッポンとは赤い帽子のことで、自由民権運動にかぶいている者のことを云う意味であったが、『赤シャッポンの数馬』と渾名(あだな)を付けられ、区内では頼もしくも恐い存在としていた。道隆、清三郎、清俊の文殊の知恵と運動活動となると蓋世(がいせい)(さい)を示す頼もしい数馬を加えた会談は清三郎の言葉から始まった。
「でわ、早速だが此の度、(うち)の兄ぃが坂本清隆塾と云う場を設けて村の子供たちを集め、穢多と云われた我々の歴史の(ひも)()いで、差別の起源(きげん)(せま)り、其の対抗策を共に研究し、正しい闘い方を学べさせたいと云うことじゃが、お三方(さんかた)の御意を見を聞きたいそうじゃ」
「此これまでの闘い方は我々がすれば良い、じゃが此れまでの闘い方ではなんの解決にも結び着かなかったことは明白です」と自信に満ちた本来の清俊に戻って凛とした声取り戻して続ける。
「だから子供達には暴力的な闘い方ではなく、もっと我々は具体的に研究して理論的に立ち向かえることを証明して、それを教えなければなりません」と、やはり博学的なことを云う。和尚の道隆は頷いて此れに同意し、称賛(しょうび)しているようだが、清三郎と数馬は不満なのか清俊の顔を見ないで本題に入っても()っている道隆の顔をばかり見て意見を聞きたい様子であった。

()
 道隆はそんな二人の心を見て取り読んだかのように口を開いた。
------------
(かつ)てワシも知識か無く解決策のないままでは子供達に歴史の紐を解いで、どうしてワシ等は偏見の目で見られ、差別を受けるのかを教えるのは(かえ)って子供達の心を傷つけることになり危険だと云って反対し、()えて何も云わずに黙っていたのは、どうしても差別がなくらないであろうと諦めにも似た失望感と差別さられるのが当然のようにと慣れてしまっていたことじゃ。あの子等は無辜じゃから黙って辛抱させようとしていたのかも知れん。また無辜であれば、いつか時が解決してくれるじゃろ、無辜なればいらぬ呪詛のような苦しみに合わずに済むと現実から逃げておったのかも知れん。村の他の大人達もこの問題に子供達から問われると難しいことじゃから、ワシのような考え方を子供達に黙ったまま圧しつけているのかも知れんのう。差別に逆らえば逆らうほど、嫌われるじゃろ、しかしどこかで食い止めなければ永遠と続くであろうし、どうしたものじゃろうと知識がないワシは清俊はんとここ数日間、再三にわたり何度も協議してまいった。」道隆は紫の西本願寺派下藤紋が刺繍された半袈裟を正して更に続ける。
「その結果、やはり清俊はんは博学的な活動家じゃ。仏法では道に迷うと考えるな、答えは既に己の心の内にあるから、感じ取り思い出せと云うが、清俊はんが東京からもって帰ってきてくれた素晴らしいものをワシに見せ思い出させてくれた。此れなくしては差別を根源から覆すことは出来んであろうし、また国民全体が人間解放の道を望むなら穢い多くの者とワシ等への差別を辞めない限り、この教えは必然的に成り立たなくなるものじゃ」
「では双方に理があるよいものとは何ぞね和尚
??
(ひとみ)を閉じたまま、清三郎が問う。数馬も聞きたい様子で、
「早よう早よう」と即した。

------------でわ、お二人にまずお聞きしたいが、明治天皇が天地神明に誓約する形式で、五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)のことはと当然ご存じでしょう」
将軍 徳川慶喜は大政を奉還し、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針ですなと清三郎。
「私も少しは知っていますよ。しかしそれは明治天皇が示したとはいっても、明治天皇は当時まだ十六歳でしたので、文章自体は
由利公正が起草し、福岡孝弟が修正したものに、さらに木戸孝允が編集をして成立したというではうりませんか」と数馬であった。数馬は続けて、
「和尚、その五箇条の御誓文がどうしたというのです」
「その五箇条の御誓文の文章中に我々が
懇願(こんがん)する理想顕現が含まれているのじゃ」と、道隆は清俊を促して五箇条の御誓文を半紙に複写したものを懐から出させて見せた。
其処には、
五箇条の御誓文
一 広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテウマサラシメンコトヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇貴ヲ振起スベシ
と道隆の独特で達筆な字で、書かれていたものを道隆は畳に置いて、

「清俊はんここはひとつ貴方から説明してくださらんか」
「はい・・・・伯父さん、数馬君、いいですか此処に書かれているのは」と少し間を置いてから、
其の一、広く会議を開いて、すべての政治は人々の意見によって行われるようにすべし、
其の一、上の者も下の者も人民が心をひとつにして 盛んに国家統治の政策を行うべき、
其の一、身分にかかわらずに、誰もが志を全うし、その意思を達成できることが必要、

其の一、今までの悪しき習慣はやめて、国際社会に合った行動をすべし、
其の一、新しい知識を世界から学び、天皇が国を収める基礎を盛んにすべき、
 と書かれている意味を説明した。
「其れは清俊君、僕も君も東京で
後藤象二郎(ごとうしょうじろう)さんに教わり、知っておるが僕には今一其れが我々の理想へと繋がるのかどうかが解らんのじゃ」と数馬は前乗りになって正面に座していた清俊と道隆に膝を進めて詰寄った。
「ほほぉ、後藤象二郎とはあの土佐の
坂本竜馬(さかもとりょうま)と共に薩長同盟や大政奉還に大きな役割を果たしたと云う人物じゃのう。清俊、もっと説明してほしい」と目を閉じていた清三郎は大きく(ひとみ)を開けた。
「はい、土佐でも上士、下士の身分制度が厳しかったそうですから、此れを解放するにはアメリカの民主主義思想と同じである五箇条の御誓文の実現を求める他はないと自由民権運動にとって最も至高の人間宣言であって、我が国もそうあるべきだと自由党では後藤さんがよく唱えております」
「智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇貴ヲ振起スベシとはワシらにとってすべからずじゃが、此の五箇条の御誓文のう天皇が天地の神々にお誓いしたもので、自らは
現人神(あらひとがみ)であることを否定したと云うことじゃ」と道隆は明治天皇があらゆる国難の先頭に立って伝統あるこの国を護り、世界各国との親交を深めつつ国を隆昌に導こうとするにあたり、国民への協力を求めいる御身心(おみごころ)五箇条の御誓文の猶書きされた、
我国未曾有(わがくにみぞう)変革(へんかく)(なさ)んとし、朕躬(ちんみ)をも()(しゅう)(さきん)じ、天地神明(てんちしんめい)(ちか)ひ、(おおい)斯国是(このこくぜ)(さだ)め、万民保全(ばんみんほぜん)(みち)(たて)てんとす。衆亦此旨趣(しゅうまたこのししゅ)(もとづ)協心努力(きょうしんきょうりょく)せよ」の文字に覚り、有難く目頭を熱くして天井に顔を上げた。其れを横で見た清俊は和尚の代弁としてか、自分の考え方か次のような言葉を添えた。
「而して天皇が解放令を配布し、
一視同人(いっしどうじん)の有難いお言葉を下された。然し此れはまた国民一般に利益を均霑(きんてん)せしむる為でなく、平等に恩恵を受けていない我々に、及ばす哀れであり同情に値するもので、此れに甘えていては、本当の自由平等への解放は成し遂げられません。だから、哀れみを候のではなく、運動闘争での中で、少々手荒な闘い方も亦、必要とするのは当然ですが、私は子供達には乱暴な解決策では差別は決して無くならないことを教え、出来れば、平和を求め理論的にこの世を変えて解決出来るように導きたいのです」
「そうだな、嫌われて差別さられるのは僕らだけで十分だ。此れまでの闘い方は僕達だけにして子供達にはもっと良い良策で闘ってもらおうではないか」と数馬が
咆哮(ほうこう)するように云う。
 斯うした議論が四時間以上に渡り続き、
(からす)が本馬山の丘に鳴きながら帰って行くのが分かっし、コノエであろう道隆に代わって鐘を鳴らしている。
「もう夕刻じゃのう。・・・・よしわかった和尚、清俊、数馬よ、清俊が設けた塾には出来るだけ多くの子供達を集めよう。而して此れから
(のち)も我らは斯うして子供達にどのようなことを教えていったらよいのかを多いに話し合おう」と清三郎が云うと、道隆は、
「いやいや、子供達だけではなく、大人も
女子(おなご)ども達も学べるような塾ではならんのう」
「はい」と恭しく清俊。数馬は力が入った様子で、
(ようや)く僕にもハッキリと解りました。なるほど、五箇条の御誓文にはそのような深い意味も込められていたんですな。でわ僕は早速に村の子供たちに声を掛けて集めますわ。そうじゃ、和尚の処の一隆のボンも賢いが、もう一人良い子がおるわ、駒井のおっさんの処のボンで喜作を連れて行きますぞ」と頭を掻いた。
 駒井喜作とは後に『柏原三青年』と呼ばれた西光万吉、坂本清一郎と並ぶ全国水平社の創立中心メンバーとなる一人になるのである。



(8) 
(五)
小高い丘の本馬山を見上げれば、其の頂上の雲ひとつとない青い遥か上空に二羽の鷹が舞うように飛んでいた。
(ふもと)の坂本家の門前には児童や青年等が朝から集まっていた。中には母親に手を引いて連れられて来た小僧もいるし、今日は日曜日で膠製造業の工場の仕事を休んでいる近所の大人達もやって来て、
「昔からそう決まっておるとしか知らんワシ等にも清俊はんは教えてくれるそうじゃ」
「そうじゃて、東京で勉強して帰ってきはった清俊はんが、何故ワシ等がエッタと言われ、差別さられるのかを昔に決まった理由や訳を子供達だけではなく、ワシ等大人にも教えてくれるそうじゃ」
「ほいでなぁ、差別をなくす良い手立てがあるから、みんなで勉強しようということらしい」
「ほいでもわたし等に対する差別や偏見はそう簡単になくなるものではないでしょう」
と少し離れた所に
(たむろ)している児童や青年達に聞こえないように、大人達はヒソヒソ話をしていた。
 
(さと)く耳の良い清一郎はそんな大人達を一瞥(いちべつ)して
「チェ」と舌を鳴らした
そんな清一郎の周りには先に巽数馬に連れられて来た喜作がいたし、本来無口であった一隆も相変わらず黙したままであったが、大きな眼だけを光らせていた。
一隆は勉強好きだ、解らないことがあったら自分が納得いくまでとことん知りたがるところがあった。一隆も先に父の道隆に連れられて来たのだが、
「ええか、一隆よ今日から清俊はんが、学校では教えてくれん勉学の先生じゃ。此の先生はのう上も下もない平等の世作りの先生じゃから、よくよく聞いてなぁ勉学に励んだら、自分達の手で差別や偏見に立ち向かえるようになるんじゃ」と、云って数馬と共に、先に坂本家の屋敷内に入っていった。一隆は其の道隆の言葉を何度も繰り返すように思いだしていた。
清俊が学校に抗議をしてくれたからと云っても学校での一隆に対しての虐めや差別がなくなった訳ではない。普段から大人しい一隆は虐める側の悪童も虐め容易いのか、
「ちょっと虐めたぐらいで、どエッタはすぐに親や大人に云いつける根性なしや」と、
余計に唾を吐きかけられ、嘲り笑われた。最も其の度に何処からともなくと清一郎が現れ、此れを怒鳴り蹴散らしてよく一隆は助けられたが、清一郎のようには行かないし、しようとしなかった。考えて虐められない差別されない方法があるはずだと云うことを無意思的に彼は物思いに深ける様子であった。此処で勉強すれば自分の手で解決が出来るかも知れない。そんな父親の言葉であったので、眼の光は胸を膨らませて期待に満ちた輝きであった。
ともあれ此処に、後に『柏原三青年』と呼ばれた西光万吉、坂本清一郎、駒井喜作が
(そろ)った訳だが、一隆も清一郎も喜作のことを今まで知らなかった訳ではなかった。喜作は一隆とは異なう性質で弁が達者の大柄で明るく良く喋る少年でたった。
 其の他にも山田敬一を含む数十人の児童達が此処には差別する敵が無く、味方ばかりであったので、意気揚々としているかのような顔が
()える。
 暫くして坂本家の使用人が門を開け、待っていた者達を『坂本清俊塾』と掲げてある看板の前まで案内し、通した。其処で待っていた袈裟がけの道隆は、
「どうじゃこの坂本清俊塾と書いた看板は見事なものじゃろう。いやいやワシもな少々書道には自信があったが、清俊はん、いや此処の先生が書いた達筆な字を見て、先ずは此処から敬い、見習うことが肝要じゃぞ、さぁさぁ入って入って、大人衆も遠慮のう入ってくださいな」と
(いざな)い大きく笑った。
 而して皆が中へ入ると道隆は正面の真ん中に座っている清俊の右側の座に戻り腰を降ろした。清俊の左側には清三郎が座していて、静まった処で本塾の趣旨と目的を清俊は説明した。趣旨は掻い摘んで言い渡されたもので、何故に柏原北方の者は
賤視(せんし)さ、差別さられるのか、古くは徳川幕府まで遡り、歴史の紐を解いて説明し、此れを知ってもらった上で、差別のない平等な世の中にしていく為には、みんなで研究しながら対抗策を学んで行こうと云うものであった。亦、目的は此処で研究し学んだことを活かしきり、此れからの子供達はエッタと云われても誇りと気概を持って対抗出きるようにと説明された。
すると、子供達よりも大人達が、ざわざわとどよめき、騒ぎ出した。
「エッタと云われても誇りを持っていいのかぇ。どうして誇りをもてるのじゃ」
「そやそや、今でも家の年老いたばぁさんなんかは、あの明治橋であっち村の人間と出あうと、その場で
裸足(はだし)になり土下座しておるんやで、そんなワシ等の身分でも誇りをもてるんかぇ」
「そんな出来もしねぇことを子供達にどうして教えると云うんじゃえ」
そうした言葉が大人達に飛び交う中で、後ろの方で乳飲み子を抱いた一人の若い主婦が手を挙げて立ち上がり前に進んで来た。そしてどよめいていた大人達は其の様子を見守るかのように静かになった。女性は清三郎、清俊、道隆の顔を順に見て行き、正面に座している清俊に戻り其の眼を真っ直ぐに見て、
「先生、私達の祖先は朝鮮人であったのかも知れないと私は教えられました。朝鮮人の血を引く私達は
(きたな)い多くの者と差別さられるのは当たり前のことで、仕方がないとも教えられました。其れは本当でしょうか。仮にそうであったとしても、私等はこの国に生れております。だから本当に私等も此の子供達にも同じ日本人として誇りを持って生きて行くことができるのでしょうか。教えてください」とその場に泣き崩れてしまった。
此れには流石の清俊も清三郎も道隆すら、唖然とし、暫く返す言葉がなかった。
そんな間違った流言が
蔓延(はびこ)っていた事実を知り、亦、本気で柏原部落の人間は祖先から朝鮮人の血を引きづいた人間であると信じている大人達も多くいることが解ったのである。
清俊は本塾を開設した日に当たり、はじめから衝撃的な現実を突きつけられ、落胆する。





(9)





   

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